●西徳寺の沿革

 西徳寺は寛永五年五月、当時新興都市であった江戸における佛光寺門徒の聞法道場として、 金助町(現在お茶の水に近い本郷近辺)に建立された。徳川幕府三代家光の時に当たる。
 初代の住職は新潟県寺泊の名刹「聖徳寺」住職の次男、釈善如法師が本山の命を受けて就任している。
 ところが建立されてからわずか五十年の間に三回の火災に見舞われてしまう。この三回の火災の中には八百屋お七 で有名な「振り袖火事」も含まれているが、そのたびごとの再建の為、すっかり疲弊してしまう。
 この土地にいては再び同じ憂き目に遭うと住職・檀信徒が協議の上、当時まだ江戸郊外であった龍泉(現在の場所) に移転することになった。時に天和三年(1683)四月のことであった。
 当地に落ち着いて十一年目、奈良の法隆寺が破損のひどい伽藍がらんの大修復用資金集めのため、はるばる 江戸において出開帳を行う話が持ち上がり、千年の歴史を持つ法隆寺の数々の秘宝を運ぶことになり、 管長をはじめ総勢七十余名が奈良を出発、その道案内を兼ね先導されたのが法隆寺近くにある仏光寺派の名刹上牧 の光専寺七代目の住職、川端永傅師でありその最初の3日間の宿所が西徳寺であったと法隆寺の古記録に残っている。
 西徳寺は当時、すでに佛光寺派の江戸における中心拠点であった。  文政四年三月、龍泉に移って百四十年目、本山の門主第二十二世順如上人の第二子正行院釈応専法師 が住職として就任した。
 師は子に恵まれず、以後も住職はほとんど世襲されず様々な方が一代ずつ勤めてきた。  近世にはいって、大正十二年、西徳寺は大きな試練を受ける。 真宗興正寺派・本山興正寺から住職として入寺されていた釈暁覚法師が六月一日急死。 三ヶ月後の九月一日、関東大震災が勃発、未曾有の大震災に関東一円は廃墟と化し、 西徳寺本堂も全壊した。
こうした困難の中にもかかわらず、檀信徒一同立ち上がり、直ちに本堂再建に向かい竣工は昭和五年五月、 当時日本で珍しい鉄筋コンクリート寺院がお目見えした。しかもイス式の参詣席という時代を先取りした建築 であった。この斬新さは世間の注目を浴び、昭和天皇崩御のあと毎日新聞が出版した「百科事典」の五月十五日の ところにも掲載されており、現在の本堂は寺院建築史の一頁をひらくこととなった。

●現在の西徳寺

 こうした動乱の中にあっても当寺は親鸞聖人のみ教えを聞き伝えていく道場としての役割を果たして歩んでいる。
 報恩講、両彼岸会の他に「出かけていく聞法会」といった、当時独特の布教活動も実施。 この活動は総代会のもとにその執行機関である評議員会が中心となって東京及びその近郊を 中央、城東、城南、城西、城北の各五ブロックに分け、門信徒の出席しやすい場所で聞法会を開催している。
 その他、定例聞法会、婦人会、青年会、同行会等が組織され活動している。